第5回 慣用句の問題
里子の右目は思いのほかの重症で、失明のおそれがあるといううわさだった。たきびに生栗を入れたのはだれかが問題になっていると聞いたが、彼はおそろしくて名乗り出ることができなかった。まことに薄気味の悪いことだったが、なんのおとがめもないままに彼は知らぬふうをよそおっていた。(つづく)
[ 問 ]
下線部「なんのおとがめもないままに彼は知らぬふうをよそおっていた。」とありますが、こうした様子をあらわす慣用句があります。「顔」という言葉を使い、「〜顔」に続くようにひらがな五文字で答えなさい。
[ 解説 ]
設問文に「『顔』という言葉を使い、『〜顔』に続くように」とあり、これが重要なヒントになっています。
本問の答は「なにくわぬ(顔)」です。わからなかった人も、正解を見ればなるほど思うはずです。「そしらぬ(顔)」でも意味は同じですが、字数が合いません。
慣用句の問題では、身体の一部を用いた表現が頻出します。その場合、「舌を巻く」や「顔が広い」など、その身体の一部が先頭にくる型が大半です。本問は、それが末尾にくる型であり、その意味でやや意表をついたものといえるかもしれません。
ところで、中学受験用のテキストなどに慣用句の一覧がありますが、この「なにくわぬ顔」は、それらに載っていない場合もあると思います。なぜこのような慣用句が出題されたのかを考えてみることは、入試国語対策の意味を考える上で重要かもしれません。
出題者はこの設問で何を意図したのでしょうか。周到で練達した出題者ならば、よく用いられている受験用のテキストは必ず手元において調査するはずです。彼はそれらのテキスト類をていねいに調べ、これから出題しようとする慣用句が掲載されていないことを確かめてから出題を決定したのかもしれません。もしもそうだとすれば、彼は見事に受験生の裏をかいたことになります。
もちろん以上は単なる想像に過ぎませんが、仮に今回正解できなかったとしても、「いじわるな出題者だ」などと愚痴を言う前に、これまで読んできた問題文をもう一度ふりかえってみてください。まだ終わりまで読んだわけではないのですが、情感にうったえる非常に良い文章です。これは三浦哲郎の「たきび」によるのですが、わざわざこのような文章を選んだ出題者の意図をよく考えて見なければいけません。あきらかに、彼はこのような物語に感動することができ、そして作中人物のこころを理解し、それに共感できる受験生を採りたいと願っているのです。
合格か不合格かは、最終的に点数で決まります。そのため、受験生はとかく点数にこだわり、1点でも多く得点して憧れの志望校に合格したいと願うのですが、一方、独自の校風をもつ私立中学校の側には、このようなタイプの受験生が欲しいという、明確なポリシーがあるのです。
例えば開成中学の国語は数年前に論述主体に転換しました。桜蔭中学も同様で、現在は切り替えの過渡期にあるものの、来春には桜蔭独自の出題スタイルが確立するものを思われます。この論述形式への変更が示唆するものを、一度冷静に考えてみる必要があります。
さて、「なにくわぬ顔」にもどります。この表現は、受験テキストには掲載されていなくても、おそらく毎日の生活のどこかで、会話や様々なメディアを通して、すでに聞いたり読んだりしたことがあるはずです。それに気づき、自分自身の語彙にできるかどうかは、言葉に対する注意力の問題です。
論点を整理しましょう。出題者は、いわゆる受験勉強によって詰め込まれた知識よりも、日常生活の中で言葉を正しく理解し身に付けていく能力を評価しているのではないか。そして、そのような明晰かつ繊細な言語感覚を持つ生徒を迎え入れたいと願っているのではないか。仮に以上の推測が成り立つとすれば、当然国語対策にも、それ相応の工夫が求められるはずです。
ちなみに、この出題校は筑波大附属中学です。
[ 第2回 言葉をたくさん覚えよう ]で、国語の基礎力を養う方法として、「音読」「言葉の意味調べ」「読書」の3つをあげました。すでに読んでいただいた方々には納得していただけたと思います。しかし、その一方で、「たしかにその通りだが、そんな悠長なことはしていられない。すぐに役立つテクニックを教えて欲しい。」という声も聞こえてくるような気がします。長い教師生活の経験をふまえて言わせていただければ、上記のアドバイスは、頭では理解していただけるとは思うものの、その通りに実行していただけるケースは少ないのではないかと思います。
しかし、ここにとりあげた筑波大附属中学をはじめ、工夫を凝らした特色ある出題がなされている学校を志望する受験生は、詰め込み中心の無味乾燥な学習方法のままでよいのかどうか、一度よく考えてみていただきたいと思います。
ただし、誤解をまねかぬよう申し添えておきますが、現在塾などで教わっているテキスト類は、あれこれ迷わずにしっかりと習得していただきたいと思います。塾のテキストを信じましょう。長い実践のなかで練られたカリキュラムを無視して、自己流で準備することは危険です。問題は、カリキュラムを消化した上での“プラスαの工夫”なのです。
慣用句の一覧なども、できるだけ早い時期に通読しておくことをおすすめします。その際、全部覚えられなくても気にする必要はありません。声を出して何度も読む練習をしておけば、日常生活の中でそれらの慣用句にふれたときに、これをはっきりととらえることができます。なるほどこんな使い方をするのか、と納得がいけば、もうその表現は自分自身のものになります。しかし、入試直前になってからあわてて覚えようとすれば、無味乾燥な暗記のための暗記にすぎなくなってしまいます。
[ 正解 ]
なにくわぬ(顔)