秘伝!国語入試問題の解き方

第15回 詩の問題

  次の詩を読んで、後の問いに答えなさい。 

  ぞうきん

まどみちお


雨の日に帰ってくると

玄関でぞうきんが待っていてくれる

ぞうきんでございます

という したしげな顔で

自分でなりたくてなったのでもないのに


ついこの間までは

シャツでございます という顔で

私に着られていた

まるで私の

ひふででもあるように やさしく

自分でそうなりたかったのでもないのに


たぶん もともとは

アメリカか どこかで

風と太陽にほほえんでいたワタの花が


そのうちに

灰でございます という顔で灰になり

無いのでございます という顔で

無くなっているのかしら

私たちとのこんな思い出もいっしょに

自分ではなんにも知らないでいるうちに


ぞうきんよ!

 「まどみちお」という詩人の名前を知らない人でも、「ぞうさん ぞうさん お鼻がながいのね…」という有名な童謡を知らない人はいないと思います。

 今回は詩の問題を取り上げます。

 詩は大きく分けると、叙情詩と叙事詩になりますが、日本の作品はほとんどが叙情詩です。したがって、主観的な色合いが非常に濃くなります。客観的な文章の代表が「説明文」ならば、逆に主観的な作品の代表が「詩・短歌・俳句」だといえるでしょう。

 確かにその通りなのですが、入試問題として成り立つには、客観性が何よりも大切です。出題者が自身の独断的解釈を根拠に作問したり、採点が、だれにでも納得のできる客観的な基準によらず、採点者個人の主観に左右されるようでは、公平な選抜は期待できません。

 したがって、「詩」の作問においても、他のジャンルと同様に、解答の根拠は原則として詩の本文そのものの中に置かれます。

 結局、「詩」の問題においても、今まで述べてきた読解の方法論と異なるものではないということになります。

[ 問一 ]

 下線部「自分でそうなりたかったのでもない」とありますが、そのことが表れている表現を次の中から一つ選んで、記号で答えなさい。

ア シャツでございます という顔で

イ 私に着られていた

ウ まるで私の ひふででもあるかのように やさしく

[ 解説 ]

 詩人の感性は、なんの変哲もない日常の様々なものごとに、凡人では見過ごしてしまうような何かを感じ取り、それを言葉によって形にします。

思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ

 これは俵万智の作品です。

 ここに詠われている「麦わら帽子のへこみ」は、ごく平凡なありふれたものです。しかし、このように表現されてみると、「ああ、なるほど…」と気づかされるものがあるのではないでしょうか。

 ここでは、「麦わら帽子のへこみ」は単なる物理現象ではありません。普通の感覚では、「へこみ」とは好ましからざるもの、つまりものの価値を損なうものであり、修復を期待されるものです。しかし、れが楽しかった夏の思い出の象徴となると、感じ方が全く逆転してしまいます。二度と取り戻すことのできない過去を、愛惜の念をもって振り返るとき、その痕跡でしかない「へこみ」が、なにかたとえようもなく貴重なものに思えてくるのです。もとに戻そうとすれば、なんの造作もないのですが、そのことが逆に「へこみ」のはかなさを際立たせます。もとに戻すも戻さぬも、自分の気持ち一つです。それに対して「へこみ」は全く抗する術がありません。この絶対的に無力なものに注がれた、作者のあたたかいまなざしを感得するとき、同時に、読者である自分自身の眼にも「麦わら帽子のへこみ」がありありと浮かび上がってきます。そして、作者の感慨そのものを疑似体験している自分に驚くかもしれません。

 文学とは何か、といった抽象的な議論はともかくとして、これこそが、文学体験なるものの実相なのです。

 このような問題にご興味のある方は、「論語」の次の言葉を熟読玩味されることをお勧めします。

 子曰く、甚だしいかな、吾が衰えたるや。久しいかな、吾れ復た夢に周公を見ず。

述而第七 ここで設問にもどります。

 この詩を読むと、作者まどみちおの「ぞうきん」に対する万感の思いがひしひしと伝わってきます。「ぞうきん」を慈しむ、などと言えば、ギャグととられかねないのですが、繰り返し読み返してみれば、決しておふざけではないことが感じられてくると思います。

 さて、ここで鑑賞から一歩退いて、解析のメスを執りましょう。

 下線部「自分でそうなりたかったのでもない」と同内容の表現が他にもあります。

 第一連「自分でなりたくてなったのでもない」、第四連「自分ではなんにも知らないでいるうちに」。

 同じ意味内容の表現が各連の末尾に反復されていることから、そこにこの詩の主題が詠みこまれていると考えてよいでしょう。

 ここから読み取れることは、意思をもたず、すべて人間の都合で利用され、そして利用され尽くした後は燃やされて灰になり、無に帰してしまう、まことにはかない存在と、そのような存在に注がれた作者の暖かいまなざしです。

 このような存在を、対立概念によって把握しなおしてみましょう。

 自分の意思をもたず、すべて人間の都合に左右される存在という観点から、「自律的」「他律的」、「能動的」「受動的」、あるいは「支配」「被支配」、というような把握が可能です。

 いずれも後者があてはまります。

 以上は、意味内容に関する把握です。

 一方、表現技法に注目するならば、これはあきらかに「擬人法」です。

 意味内容の面…「他律的存在」、「受動的存在」、「被支配的存在」

 表現技法の面(形式的側面)…「擬人法」

 設問の、「下線部『自分でそうなりたかったのでもない』とありますが、そのことが表れている表現を…」という言い方は曖昧で解釈に迷います。「そのこと」と言われても、漠然としていて、意味内容を指しているのか、それとも表現技法を指しているのかよくわかりません。

ここで各選択肢を検討します。

ア シャツでございます という顔で             擬人法

イ 私に着られていた                     受け身

ウ まるで私の ひふででもあるかのようにやさしく   直喩法

 意味内容を基準にするなら、正解はイであり、一方、表現技法をを基準にするなら、正解はアとなります。  さて、どちらを選んだらよいのでしょうか。  先にも述べましたが、下線部とよく似た内容の表現が3箇所あり、それらがこの詩の主題を表していると考えられますので、当然下線部も主題と強く結びついているはずです。ですから、このような場合は、詩の主題を基準にして検討を加えます。  その主題とは、人間の都合に支配される「ぞうきん」の有様に対する、作者の切ないまでの同情や共感であると読み取ることができます。

 それ故、「支配される」という主題の持つ意味合いを、強く読者に印象付けるための表現が下線部「自分でそうなりたかったのでもない」なのだと考えられます。

 一方「擬人法」は、下線部のみならず、「ぞうきん」の描写に際して、詩の全体にわたって満遍なく用いられています。それゆえ、主題を表現するための、特定の表現技法と考えることはできません。

[ 正解 ]

[ 問二 ]

 第一連から第四連の中で、第三連だけが他と違った表現になっています。

(1) どのように違いますか。

(2) なぜ違う表現になっているのですか。

[ 解説 ]

 (1)は「…他と違った表現になっています。」となっていますから、表現技法を問う設問です。

 詩の主な表現技法を列挙しておきます。

 比喩法(直喩法・隠喩法)、擬人法、対句法、反復法、倒置法、省略法、、体言止め、呼びかけ

 第一・二・四各連に共通するのは「倒置法」です。

 一方、第三連は、「たぶん もともとは アメリカか どこかで 風と太陽にほほえんでいたワタの花が…」としてみるとよくわかるように「省略法」です。

 ちなみに、第五連は「呼びかけ」です。

 (2)は違う表現法になった理由ですが、これは深く読み込めば際限なく追究できます。しかし、本問は小学生対象の出題ですから、背景的な知識を根拠とした解答などは考える必要ありません。それどころか、たとえば「無常観」といった仏教用語などを援用すれば、この詩に対する生の実感とはかけ離れた抽象的な把握となりますから、出題者の要求にそった答案とはならないでしょう。

 無理に難しい用語を用いずとも、ごく日常的な言葉でもかなり分析できるはずです。 

 第一・二・四連は、目の前の「ぞうきん」を見ながら、その現在(第一段落)、過去(第二段落)、未来(第四段落)について語っています。いわば「ぞうきん」の一生ですね。

 一方、第三連は「ぞうきん」ではなく、「ワタの花」になっています。「たぶん もともとは アメリカか どこかで…」となっていますから、目の前の「ぞうきん」ではなく、そのもとの姿を想像しているわけです。言ってみれば「ぞうきん」の前世でしょうか。

 以上を簡単にまとめれば、第一・二・四連は、現実の「ぞうきん」に関する表現で、第三連は「ぞうきん」のもとの姿についての想像となります。

 試験は時間の制約があるわけですから、とりあえず上記の観点で解答をまとめましょう。それなりに得点できるはずです。

 もしも時間の余裕があれば、さらに精密に分析を加えて内容を深めればよいのです。

 ここではもう少し深く掘り下げて検討してみることにします。

 まず、上記のとらえ方では、現実の「ぞうきん」に関することが、なぜ倒置法とならねばならないのか、また、もとの姿である「ワタの花」に関する想像が、なぜ省略法とならねばならないのか、という点がうまく説明できません。

 また、「現実」と「想像」に分けてしまうと問題が生じます。第四連をよく読んでみると、これは「ぞうきん」の未来についての「想像」です。そうなると、「ぞうきん」の「現実」を詠ったのが第一・二連、「想像」を詠ったのが第三・四連ということになりますから、第三連だけが「違う表現になっている」ことについての説明がしにくくなります。

 したがって上記の2点を説明できれば、もっと的確で深みのある解答になるはずです。

 まず倒置法の理由から再考します。

 先に、「下線部『自分でそうなりたかったのでもない』と同内容の表現が他にもあります。第一連『自分でなりたくてなったのでもない』、第四連『自分ではなんにも知らないでいるうちに』。同じ意味内容の表現が、しかも各連の末尾に反復されているということは、そこにこの詩の主題がこめられていると考えてよいでしょう。」と述べました。

 ここでまたしても「主題」の登場です。

 第一・二・四連は、現実の「ぞうきん」を目にしながら、人間の一方的な都合で姿を変えられていく様を、同情の念をもって詠っていました。その作者の痛切な思いが、各連の末尾に詠歎となって表現されているわけです。

 ここに注目すると、倒置法を用いた理由が納得できるはずです。つまり、作者は主題を詠み込んだ表現を、第一・二・四各連の末尾にもってくるために倒置法を用いたと考えることができるわけです。

 では第三連の省略法の理由はなんでしょうか。

 作者にとって、「ぞうきん」とは単なるモノではありません。それは既に人格を持ち、そこに作者の感情を投入できる生きた存在なのです。

 「感情移入」という言葉がありますが、実に深い意味をもっています。西洋諸国の大部分の国民は、鯨に対して既に感情移入を行なっています。彼らにとって鯨やイルカは、単なる海洋生物ではなく、ましてや商品価値を伴う海産物などではありません。それゆえ商業捕鯨の問題は抜き差しならぬものとなり、論理の通用しない感情レベルの論争となります。

 さて、すでに「ぞうきん」に対して感情移入した作者にとって、その前世である「ワタの花」も、単なる原材料ではなく、情緒の対象です。すでに人格をもった「ワタの花」が、収穫され、鋼鉄の機械で暴力的に姿を変えられていく様を想像することは、深い痛みを伴わずにはおれません。

 そう考えると、省略法を用いた理由が理解されてくるはずです。作者は、単なる技法上の工夫から省略法を用いたというよりも、むしろこころの痛みに耐えかねて、省略せざるを得なかったのだと考えられます。

 そして読者の想像力は、その省略によって生じた空白に、それとなく誘われていきます。読者自身が作者まどみちおのこころの痛みに共感し、そして「ぞうきん」の「一生」を脳裏に浮かべてこころを痛めるならば、そこに真の文学体験が示現しているのです。

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